クレイン・トータス新聞
トータス新聞1面記事
哲さんと敏ちゃんの心
2020-01-01
新年おめでとうございます。
令和2年の年頭に向けてこの原稿を書きはじめた時、中村哲先生の悲報を知った。哲さんを知るクレインの職員たちと顔を合わせては悔やんだ。どうしても哲さんのことを書きたかった。
一度お逢いしただけで「哲さん」呼ばわりは無礼に思うのだが、お人柄がそう言わせているだけではなく、哲学の哲である。今日科学技術の著しい進歩―自動車や医療機器はじめ日常生活の便宜を加速する種々の機器類、生命科学、人工知能(AI)、宇宙探査、量子コンピュータで分析される未知の世界等、私などアナログ人間は付いて行けない場面が増すばかりで人類史上の大変革がはじまっていると思っている。先行きを見通せなくなっている今、哲学によって進路を見出していくほかはないのではないか。
その哲学であるが一口で説明できるものではないが、私流に考えられる哲学を簡略に言えば、物事の根本原理をさぐり、それらがどのように関連しあい、全体としてどうなっているのか。私たちはどうしたらいいのか、それらは世界の人々の人生になることだから、一人ひとりがどうしてかを考えようという学問と言えるだろうか。私が西田幾多郎哲学の理解に近づこうとする入口で、まず深く考えようという指示が出される。表面的な出来事を追うだけでは入口を入れない。
氾濫する映像や種々の情報が日常的に次々に流されて刻々と変化し、それを追いかけるだけで多くの人が心を満たし、そこに留まる暇もなく出来事に追いかけられている。何かをしながらのスマホ、歩きながらのスマホから何を得ているのだろうか。ゆっくり立ち止まり思案にふける余裕はなかなか与えてもらえない。結局は自分からではなく何かに動かされている現実があり、哲学とはそこに待ったをかける力を備えている。少々説明が長くなってしまったが、そんな理由から私は敢えて中村先生ではなく哲さんと言ってみたい。
私の哲さんとの出逢いは一枚の写真であった。爆撃によって破壊され瓦礫と化した荒地をアフガニスタン風の帽子をかぶった少年が弟らしい小さい少年の手をとってこちらに向かってくる。親の姿はなく表情がよくわかった。民族も国境も超えて何もない風景の中をただ歩いて生きているだけの姿が胸に迫る。干ばつとこのような荒地によって砂漠と化したアフガニスタンの荒涼とした土地を緑の畑や果樹園にしてきたのが哲さんだ。
医師として行ったのであるが、病気の背景には食糧不足と栄養失調があるとして水を確保するため灌漑用水路と井戸の掘削をはじめた。現地の人々の持続可能な生活は、それまで続いてきた得意な農業を再開させること。そして現地の人が継続管理できるように現代的な施設ではなく伝統的な技法を用いた。水路をコンクリートで固めずに、日本で行われていた自然と調和を図る蛇籠の護岸で水に強い柳を植えることもした。そこには魚や昆虫など多彩な生物が棲息できる環境も考えられていた。
哲さんの頭の中には常に貧しい人々の生活があった。土地を失い、職を失い、やっと生きている人々と共に働いて普通の生活ができるよう考えてやっていた。爆撃して破壊の後、何もないからと食糧や衣類などを空から落下させる偽善を嫌悪する。生きてきた場所で、自分たちの力で働いて生きて行けることを哲さんは手助けしていた。幸せはそこにあると、まさに生きる哲学を実践されていたのだ。
哲さんが一時帰国の時、大橋さんが知り合いであったことで、市原市民会館での講演会が実現した。クレインから多くの職員が参加し食事も共にした。講演では、今でもハッキリ覚えているフレーズがある。「まずは生きといてくれ」「死んだら治療できないじゃないか」。これだけで哲さんの人間性がクッキリとあぶり出されてくる。素敵な言葉で今も私の心に焼きついている。哲さんは向こう(彼岸)には行っていない。一生懸命生きている世界中の人々のところを今回って居られる。
西田幾多郎の「哲学は驚きからではなく、悲哀から生まれる」の哲学を哲さんが実証されていたのだった。貧しい人々の悲哀、身寄りのない子の悲哀、寄り添える人も頼れる人もいない悲哀。悲哀は自分だけのものではない。だから「情の文化」という分析が生まれる。悲哀は人間だけのことではない。現在地球上から消滅している動植物の悲哀、絶滅してしまった生きもの。温暖化で狂い病みはじめている地球のそれ。能登半島の「西田幾多郎記念哲学館」では、現在の科学技術の進歩に反比例するように消えようとしている心――考えること感じることの人間としてのあり方を再認識できた。
一度お逢いしただけで「哲さん」呼ばわりは無礼に思うのだが、お人柄がそう言わせているだけではなく、哲学の哲である。今日科学技術の著しい進歩―自動車や医療機器はじめ日常生活の便宜を加速する種々の機器類、生命科学、人工知能(AI)、宇宙探査、量子コンピュータで分析される未知の世界等、私などアナログ人間は付いて行けない場面が増すばかりで人類史上の大変革がはじまっていると思っている。先行きを見通せなくなっている今、哲学によって進路を見出していくほかはないのではないか。
その哲学であるが一口で説明できるものではないが、私流に考えられる哲学を簡略に言えば、物事の根本原理をさぐり、それらがどのように関連しあい、全体としてどうなっているのか。私たちはどうしたらいいのか、それらは世界の人々の人生になることだから、一人ひとりがどうしてかを考えようという学問と言えるだろうか。私が西田幾多郎哲学の理解に近づこうとする入口で、まず深く考えようという指示が出される。表面的な出来事を追うだけでは入口を入れない。
氾濫する映像や種々の情報が日常的に次々に流されて刻々と変化し、それを追いかけるだけで多くの人が心を満たし、そこに留まる暇もなく出来事に追いかけられている。何かをしながらのスマホ、歩きながらのスマホから何を得ているのだろうか。ゆっくり立ち止まり思案にふける余裕はなかなか与えてもらえない。結局は自分からではなく何かに動かされている現実があり、哲学とはそこに待ったをかける力を備えている。少々説明が長くなってしまったが、そんな理由から私は敢えて中村先生ではなく哲さんと言ってみたい。
私の哲さんとの出逢いは一枚の写真であった。爆撃によって破壊され瓦礫と化した荒地をアフガニスタン風の帽子をかぶった少年が弟らしい小さい少年の手をとってこちらに向かってくる。親の姿はなく表情がよくわかった。民族も国境も超えて何もない風景の中をただ歩いて生きているだけの姿が胸に迫る。干ばつとこのような荒地によって砂漠と化したアフガニスタンの荒涼とした土地を緑の畑や果樹園にしてきたのが哲さんだ。
医師として行ったのであるが、病気の背景には食糧不足と栄養失調があるとして水を確保するため灌漑用水路と井戸の掘削をはじめた。現地の人々の持続可能な生活は、それまで続いてきた得意な農業を再開させること。そして現地の人が継続管理できるように現代的な施設ではなく伝統的な技法を用いた。水路をコンクリートで固めずに、日本で行われていた自然と調和を図る蛇籠の護岸で水に強い柳を植えることもした。そこには魚や昆虫など多彩な生物が棲息できる環境も考えられていた。
哲さんの頭の中には常に貧しい人々の生活があった。土地を失い、職を失い、やっと生きている人々と共に働いて普通の生活ができるよう考えてやっていた。爆撃して破壊の後、何もないからと食糧や衣類などを空から落下させる偽善を嫌悪する。生きてきた場所で、自分たちの力で働いて生きて行けることを哲さんは手助けしていた。幸せはそこにあると、まさに生きる哲学を実践されていたのだ。
哲さんが一時帰国の時、大橋さんが知り合いであったことで、市原市民会館での講演会が実現した。クレインから多くの職員が参加し食事も共にした。講演では、今でもハッキリ覚えているフレーズがある。「まずは生きといてくれ」「死んだら治療できないじゃないか」。これだけで哲さんの人間性がクッキリとあぶり出されてくる。素敵な言葉で今も私の心に焼きついている。哲さんは向こう(彼岸)には行っていない。一生懸命生きている世界中の人々のところを今回って居られる。
西田幾多郎の「哲学は驚きからではなく、悲哀から生まれる」の哲学を哲さんが実証されていたのだった。貧しい人々の悲哀、身寄りのない子の悲哀、寄り添える人も頼れる人もいない悲哀。悲哀は自分だけのものではない。だから「情の文化」という分析が生まれる。悲哀は人間だけのことではない。現在地球上から消滅している動植物の悲哀、絶滅してしまった生きもの。温暖化で狂い病みはじめている地球のそれ。能登半島の「西田幾多郎記念哲学館」では、現在の科学技術の進歩に反比例するように消えようとしている心――考えること感じることの人間としてのあり方を再認識できた。
哲さんと敏ちゃん
さて、台風15号、19号によって外壁が壊落したホープラザの修理に地元の人々が募金活動を進められている。鶴舞の歴史を物語る唯一の建物となってしまったホープラザへの思いは私も同じでとても有難い。鶴舞に残さねばとの一心で、乏しい予算をはたき改築し、守ってきた。現実は開設以来厳しい運営であるが、活用方法などにも果敢に取り組み、持続の道を探している。
「鶴舞げんきに歌う会」代表長谷川敏雄さんのこの募金活動は、中村哲さんの活動と重なってみえる。地域が存続するために、個人の名声や利害など無く、ただ純粋な気持ちでふる里を守ろうとしている。アフガニスタンの人々がそこで生活していけるように、哲さんは先頭に立った。鶴舞とその周辺の人々が安心と生き甲斐を持てるように、敏ちゃんは先頭に立っている。道は共に険しく遠いけど、明かりを灯し、前を見て進もうとする気概は一緒だ。哲さんも敏ちゃんも永く生き続けてほしい。
時はひっそりと知らぬ間に過ぎていく。鶴舞中学校が消えて久しいが、そうこうしているうちに桜ヶ丘高校も消えてしまった。そしていずれ保育所、小学校が消える悪夢がよぎり鶴舞に悲哀の言葉が浮ぶ。そして小生もそうなる時が待っている。何もなかったように全ては自然に過ぎて…。
ホープラザもそういう運命の直中にある。敏ちゃんがよく声をあげてくれた。ホープラザには公衆トイレを用意してある。地域包括支援センターにも同様に鶴舞に来てくれた方々が困らないように設えてある。私もこれからの鶴舞をどうしたら元気にできるか、いくつかのプランを提案してきた。
1月11日、春日井梅光さんが心のふる里とする鶴舞北ホテルで口演してくれる。売上げはホープラザの修繕費に加えられる。ホープラザはもはや個人のものではない。寂しくはなってきているが循環器病センターも、CTGもホープラザも鶴舞あってのことであり、地域の一員として、共に汗をかかせていただき、子供たちが一度は外に出ても再び喜んで帰って来られる鶴舞であり、寂しい魂がいつでも帰れる鶴舞をワンチームになってつくりたい。
さて、台風15号、19号によって外壁が壊落したホープラザの修理に地元の人々が募金活動を進められている。鶴舞の歴史を物語る唯一の建物となってしまったホープラザへの思いは私も同じでとても有難い。鶴舞に残さねばとの一心で、乏しい予算をはたき改築し、守ってきた。現実は開設以来厳しい運営であるが、活用方法などにも果敢に取り組み、持続の道を探している。
「鶴舞げんきに歌う会」代表長谷川敏雄さんのこの募金活動は、中村哲さんの活動と重なってみえる。地域が存続するために、個人の名声や利害など無く、ただ純粋な気持ちでふる里を守ろうとしている。アフガニスタンの人々がそこで生活していけるように、哲さんは先頭に立った。鶴舞とその周辺の人々が安心と生き甲斐を持てるように、敏ちゃんは先頭に立っている。道は共に険しく遠いけど、明かりを灯し、前を見て進もうとする気概は一緒だ。哲さんも敏ちゃんも永く生き続けてほしい。
時はひっそりと知らぬ間に過ぎていく。鶴舞中学校が消えて久しいが、そうこうしているうちに桜ヶ丘高校も消えてしまった。そしていずれ保育所、小学校が消える悪夢がよぎり鶴舞に悲哀の言葉が浮ぶ。そして小生もそうなる時が待っている。何もなかったように全ては自然に過ぎて…。
ホープラザもそういう運命の直中にある。敏ちゃんがよく声をあげてくれた。ホープラザには公衆トイレを用意してある。地域包括支援センターにも同様に鶴舞に来てくれた方々が困らないように設えてある。私もこれからの鶴舞をどうしたら元気にできるか、いくつかのプランを提案してきた。
1月11日、春日井梅光さんが心のふる里とする鶴舞北ホテルで口演してくれる。売上げはホープラザの修繕費に加えられる。ホープラザはもはや個人のものではない。寂しくはなってきているが循環器病センターも、CTGもホープラザも鶴舞あってのことであり、地域の一員として、共に汗をかかせていただき、子供たちが一度は外に出ても再び喜んで帰って来られる鶴舞であり、寂しい魂がいつでも帰れる鶴舞をワンチームになってつくりたい。
理事長 三好 敏弘