クレイン・トータス新聞
トータス新聞1面記事
大切な出会い
2020-02-01
私の学生時代は、バレーボール部に所属しており、嫌というほど先輩後輩の上下関係を味わいました。小学校時代では○○君と呼んでいたのが一変して中学から○○先輩に変わるのです。当然、先輩に対しては敬語で話します。中学校では、3年生は神様のような存在なのです。なので、1年生はむやみに3年生とは話せず、3年生も何か注意する事があれば1度、2年生を通し、2年生から1年生に間接的に注意するのです。当時、私たちが生意気な態度から同級生3人で正座させられた事もありました。また、当然ですが先輩より早く登校し、すぐに練習出来るように準備し、先輩より遅く帰る。学校内で会ったら必ず大きな声で挨拶。など、厳しい時代、その甲斐あってか今でも先輩を見かけると背筋が伸び、当時の記憶が甦ります。練習も厳しく、特に夏休みの練習後は長い廊下の雑巾がけがあり、それを5往復10本。まさに恐怖の雑巾がけと恐れられていました。どんな時も、仲間と共に励まし合い、汗を流した青春時代の思い出であり、今でもかけがえのない仲間の存在です。現在は、同級生がバレーボールのチームを作っているので休みが合えば練習に参加しています。
卒業後は、乗り物や運転が好きな事から大型バスなどの運転の仕事に就きました。観光バスは花形の運転手と言われており、白い手袋をして運転する姿は憧れでした。そして、上司に運転の「いろは」を教わりました。特に注意されたのがブレーキです。いわゆるカックンブレーキは禁止。「上下の揺れは道の関係で仕方ないけれど前後左右の揺れは全部運転手の責任だよ。荷物は文句言わないけれど人間は文句を言うからね。」と言われました。運転も、歩行者用信号機が点滅している時は早めに減速し停まるようにし、黄色信号の時は停止。発進はオートマチック車のようなギアチェンジをして発進する。乗用車感覚でブレーキを踏まない事。大型バスは重量があるので急には止まれないのです。なので、前に乗用車が割り込んで来るとストレスを感じていました。また、乗用車で走行中も停止線ギリギリで停まると対向の大型車が曲がりづらい事。大きい道路は3車線あれば左右どちらにでも逃げられるので中央の車線を走行する事。他にも色々教えて下さいました。今でも大型車の前に割り込まない事や停止線ギリギリに停まらない事などを心がけています。
初めて観光バスを運転する時は憧れの白い手袋をして、身が引き締まる思いでした。しかし、当時は、ETCがあまり普及していなく、料金所で1回毎に停車し支払っていました。特に首都高速は車線が狭く車幅がいっぱいいっぱい。合流する時の距離は短いし、左側合流の所はあるし、泣きたくなった事を今でも思い出します。また、今では考えられませんが、当時は緑ナンバーの運転手がシートベルトをしているのは素人に見られていたのです。だからほとんどの観光バスの運転手やトラックの運転手はシートベルトをしていませんでした。それに取り締まりも少し甘く、違反しても大型を持っていれば「免停になったら仕事出来なくなってご飯食べられなくなるから次から気をつけて下さいね。」と見逃してくれる優しい警察官もいました。ただ、白バイ隊員は絶対に見逃してくれませんでしたが・・・。
当時、介護タクシーは市原市では2社しか無く、需要が多かった為、上司に介護タクシーを手伝って欲しいと、ヘルパー2級の資格取得を勧められました。これからは高齢化社会になるし資格は持っていても邪魔にならないし、会社が費用を負担してくれるとのことで安易な気持ちで講習に行きました。
施設実習に伺った際、「利用者さんとコミュニケーションを取って下さい。」と言われ、何を話して良いかも分からずその場にいた生徒同士で固まってしまったり、オムツ交換の尿臭・便臭に慣れず大変苦労をしました。しかし、今の介護の仕事に繋がっているのは、あの時、上司に資格取得を勧められたことなので感謝しています。
平成25年4月、トータスに入職しました。そして更なる向上をと介護福祉士を取得しました。二種免許の学科以来、10数年ぶりにテスト勉強をしました。幕張メッセが試験会場でしたが受験者の数に驚き、合格発表の日は、緊張しながら受験番号を探す手が震えたのを今でも覚えています。今でも介護を続けている中で、たくさんの問題や矛盾に直面し、声掛け1つにしても介護の難しさを実感しています。介護技術や知識不足からご利用者に適切な介護が出来ない事があります。でもどんなに大変な事でも1人で悩まず周りからのアドバイスや一緒に考える事が大事です。失敗した時にも優しい言葉をかけて下さり、その言葉に何度も救われ、励まされた事でしょう。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。
トータスに入職してから親睦会役員を2年連続(幹事長・副幹事長)・委員会委員長・行事責任者など私にとってこれから先プラスになる良い経験をしました。これも皆さんの支えがあったからこそと思って、この先の出会いを大切にしたいです。
卒業後は、乗り物や運転が好きな事から大型バスなどの運転の仕事に就きました。観光バスは花形の運転手と言われており、白い手袋をして運転する姿は憧れでした。そして、上司に運転の「いろは」を教わりました。特に注意されたのがブレーキです。いわゆるカックンブレーキは禁止。「上下の揺れは道の関係で仕方ないけれど前後左右の揺れは全部運転手の責任だよ。荷物は文句言わないけれど人間は文句を言うからね。」と言われました。運転も、歩行者用信号機が点滅している時は早めに減速し停まるようにし、黄色信号の時は停止。発進はオートマチック車のようなギアチェンジをして発進する。乗用車感覚でブレーキを踏まない事。大型バスは重量があるので急には止まれないのです。なので、前に乗用車が割り込んで来るとストレスを感じていました。また、乗用車で走行中も停止線ギリギリで停まると対向の大型車が曲がりづらい事。大きい道路は3車線あれば左右どちらにでも逃げられるので中央の車線を走行する事。他にも色々教えて下さいました。今でも大型車の前に割り込まない事や停止線ギリギリに停まらない事などを心がけています。
初めて観光バスを運転する時は憧れの白い手袋をして、身が引き締まる思いでした。しかし、当時は、ETCがあまり普及していなく、料金所で1回毎に停車し支払っていました。特に首都高速は車線が狭く車幅がいっぱいいっぱい。合流する時の距離は短いし、左側合流の所はあるし、泣きたくなった事を今でも思い出します。また、今では考えられませんが、当時は緑ナンバーの運転手がシートベルトをしているのは素人に見られていたのです。だからほとんどの観光バスの運転手やトラックの運転手はシートベルトをしていませんでした。それに取り締まりも少し甘く、違反しても大型を持っていれば「免停になったら仕事出来なくなってご飯食べられなくなるから次から気をつけて下さいね。」と見逃してくれる優しい警察官もいました。ただ、白バイ隊員は絶対に見逃してくれませんでしたが・・・。
当時、介護タクシーは市原市では2社しか無く、需要が多かった為、上司に介護タクシーを手伝って欲しいと、ヘルパー2級の資格取得を勧められました。これからは高齢化社会になるし資格は持っていても邪魔にならないし、会社が費用を負担してくれるとのことで安易な気持ちで講習に行きました。
施設実習に伺った際、「利用者さんとコミュニケーションを取って下さい。」と言われ、何を話して良いかも分からずその場にいた生徒同士で固まってしまったり、オムツ交換の尿臭・便臭に慣れず大変苦労をしました。しかし、今の介護の仕事に繋がっているのは、あの時、上司に資格取得を勧められたことなので感謝しています。
平成25年4月、トータスに入職しました。そして更なる向上をと介護福祉士を取得しました。二種免許の学科以来、10数年ぶりにテスト勉強をしました。幕張メッセが試験会場でしたが受験者の数に驚き、合格発表の日は、緊張しながら受験番号を探す手が震えたのを今でも覚えています。今でも介護を続けている中で、たくさんの問題や矛盾に直面し、声掛け1つにしても介護の難しさを実感しています。介護技術や知識不足からご利用者に適切な介護が出来ない事があります。でもどんなに大変な事でも1人で悩まず周りからのアドバイスや一緒に考える事が大事です。失敗した時にも優しい言葉をかけて下さり、その言葉に何度も救われ、励まされた事でしょう。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。
トータスに入職してから親睦会役員を2年連続(幹事長・副幹事長)・委員会委員長・行事責任者など私にとってこれから先プラスになる良い経験をしました。これも皆さんの支えがあったからこそと思って、この先の出会いを大切にしたいです。
3階介護主任 阿部貴夫