クレイン・トータス新聞
トータス新聞1面記事
祖父と祖母
2024-02-01
昨年のこの時期、私の母方の祖父は天へ旅立ちました。
いきなりの出だしにビックリされたかとは思いますが私の稚拙な文に少々お付き合いして頂けたら幸いです。
物心ついた頃の私から見た祖父はちょっぴり頑固で天邪鬼な印象で祖母にはよく憎まれ口を叩いていた記憶が大半を占めています。そんな祖父は職人気質で礼儀作法にとても厳しく、幼少期の頃の私は落ち着きのないお転婆娘だった為、よくお叱りを受けていました。そんな私が大人になり仕事にもやっと慣れてきた一昨年の夏頃、祖母と母がお墓参りで家には祖父だけが留守番をしていた時の出来事です。
母達が帰宅した際、床に座り込み立ち上がれずにいる祖父を発見。幸いにも意識はしっかりとしており、事の顛末を聞いたところ、本人はトイレへ行き、その帰りで足がもつれ転倒したと話したそうです。その後、骨折で入院をしましたが、骨折が治ると本人の意思で施設には行かず、退院後は自宅で訪問介護、訪問看護を利用した療養生活になりました。
帰ってきた祖父は以前に比べ介護レベルがかなり上がってしまい、歩いていたのが嘘だったかのようにほぼ寝たきりで全介助は必須。食事もまともに食べられず栄養補助食品は拒否。唯一、摂取出来たのはポカリスエットのみ。状態は悪くなる一方で一度受診をしてもらおうと家族で話し合い、後日かかりつけ医への受診をした祖父はすぐに入院し暫くは点滴の外せない毎日を送っておりました。状態が落ち着いてきた頃、担当ケアマネジャーから施設への入所を勧められ病院から有料の老人ホームへ転移となりました。
病院へ入院するまでの間、要介護の祖父をずっと支えていたのは祖母でした。
私達が様子を見に来れない日や訪問介護がない夜間帯のオムツ交換や着替え等、祖父に起こされては対応しほぼ寝不足の毎日、介護を職にさせていただいている私から見ても祖母の日々は想像を絶するものだったと思います。嫌な顔一つせず献身的に介護をしていた祖母に「家にいた間はずっとじいちゃんの身の回りの事ばかりで休む暇もなしで毎日大変じゃなかった?」なんて無神経な事を聞いたこともあります。私の問いに対し「昔からそうだったのよ。私がいないと何もできないんだからやってもらって当たり前。感謝なんか結婚して一度もされた事が無いわ。」とため息混じりに小さく呟いた祖母は珍しく呆れた様な表情を浮かべていました。そんな会話から数ヶ月後の1月。祖父の健康状態を示すバイタルサインに不安定な数値が現れた為、一度面会に来て欲しいと連絡が入りました。コロナ禍であった為面会は2人まで。祖母と母が行くことになりました。面会時「なんだ、来たのか」とあまりに素っ気ない物言いに少し会話をしただけですぐに帰ってきてしまったそうで「孫とかが会いに行った方が喜ぶだろうから行ってあげて」と電話で言われた時には相変わらずな天邪鬼振りに苦笑いしか出来ませんでした。
後日、面会の予約を取り付けた私は祖父に会いに行きました。近況報告と他愛のない話を済ませると何も話すことが無くなり祖父の部屋にあったテレビを観ながらこの気まずい空気をどうしようと考えあぐねている時、沈黙を先に破ったのは祖父の方でした。「ばあさんは元気にしているか?」と。私は本人に直接聞けば良いのにと言葉を飲み込み「元気だよ。ずっと面倒を見ていたのが居なくて家事以外ずっとぼんやりしちゃうってこの間言ってたよ。」と返すと「そうか、ばあさん1人で色々と大変な事もあるだろうからお前達で協力して様子を気にかけてやってくれよ。」と珍しく祖母を心配し頼み事をしてきた祖父はきっと何かを察していたのかもしれません。面会の日から幾日も経たないうちに祖父の容態は悪化、祖母達が様子を見に行った数時間後に静かに息を引き取りました。
翌日からは祖父の施設の退所手続きや葬儀場の手配等で泣く暇もない程慌ただしい時間が続き当時の話を聞ける状態ではありませんでした。そんな日々が一段落した頃、祖母は最期の時の様子を話してくれました。
「危篤状態だって連絡をもらって会いに行った時にはもう声すら出せない程に衰弱しきっていてね、でも私の方見て一生懸命に口を開けて「無理はするな」って。最後までありがとうの一言もない頑固じじいだったけど夫婦になって57年、初めて面と向かって言われたよ。無理はしないよって伝えたし、お互い言いたい事は言えたって思っているよ。」と祖母は少し晴れやかな顔をして遺影を見つめていました。その話を聞き、最後に長年連れ添った夫婦の間で後悔のないように言葉を交わし合えたのなら祖父も幸せに眠りにつけたのではないかと思います。
いきなりの出だしにビックリされたかとは思いますが私の稚拙な文に少々お付き合いして頂けたら幸いです。
物心ついた頃の私から見た祖父はちょっぴり頑固で天邪鬼な印象で祖母にはよく憎まれ口を叩いていた記憶が大半を占めています。そんな祖父は職人気質で礼儀作法にとても厳しく、幼少期の頃の私は落ち着きのないお転婆娘だった為、よくお叱りを受けていました。そんな私が大人になり仕事にもやっと慣れてきた一昨年の夏頃、祖母と母がお墓参りで家には祖父だけが留守番をしていた時の出来事です。
母達が帰宅した際、床に座り込み立ち上がれずにいる祖父を発見。幸いにも意識はしっかりとしており、事の顛末を聞いたところ、本人はトイレへ行き、その帰りで足がもつれ転倒したと話したそうです。その後、骨折で入院をしましたが、骨折が治ると本人の意思で施設には行かず、退院後は自宅で訪問介護、訪問看護を利用した療養生活になりました。
帰ってきた祖父は以前に比べ介護レベルがかなり上がってしまい、歩いていたのが嘘だったかのようにほぼ寝たきりで全介助は必須。食事もまともに食べられず栄養補助食品は拒否。唯一、摂取出来たのはポカリスエットのみ。状態は悪くなる一方で一度受診をしてもらおうと家族で話し合い、後日かかりつけ医への受診をした祖父はすぐに入院し暫くは点滴の外せない毎日を送っておりました。状態が落ち着いてきた頃、担当ケアマネジャーから施設への入所を勧められ病院から有料の老人ホームへ転移となりました。
病院へ入院するまでの間、要介護の祖父をずっと支えていたのは祖母でした。
私達が様子を見に来れない日や訪問介護がない夜間帯のオムツ交換や着替え等、祖父に起こされては対応しほぼ寝不足の毎日、介護を職にさせていただいている私から見ても祖母の日々は想像を絶するものだったと思います。嫌な顔一つせず献身的に介護をしていた祖母に「家にいた間はずっとじいちゃんの身の回りの事ばかりで休む暇もなしで毎日大変じゃなかった?」なんて無神経な事を聞いたこともあります。私の問いに対し「昔からそうだったのよ。私がいないと何もできないんだからやってもらって当たり前。感謝なんか結婚して一度もされた事が無いわ。」とため息混じりに小さく呟いた祖母は珍しく呆れた様な表情を浮かべていました。そんな会話から数ヶ月後の1月。祖父の健康状態を示すバイタルサインに不安定な数値が現れた為、一度面会に来て欲しいと連絡が入りました。コロナ禍であった為面会は2人まで。祖母と母が行くことになりました。面会時「なんだ、来たのか」とあまりに素っ気ない物言いに少し会話をしただけですぐに帰ってきてしまったそうで「孫とかが会いに行った方が喜ぶだろうから行ってあげて」と電話で言われた時には相変わらずな天邪鬼振りに苦笑いしか出来ませんでした。
後日、面会の予約を取り付けた私は祖父に会いに行きました。近況報告と他愛のない話を済ませると何も話すことが無くなり祖父の部屋にあったテレビを観ながらこの気まずい空気をどうしようと考えあぐねている時、沈黙を先に破ったのは祖父の方でした。「ばあさんは元気にしているか?」と。私は本人に直接聞けば良いのにと言葉を飲み込み「元気だよ。ずっと面倒を見ていたのが居なくて家事以外ずっとぼんやりしちゃうってこの間言ってたよ。」と返すと「そうか、ばあさん1人で色々と大変な事もあるだろうからお前達で協力して様子を気にかけてやってくれよ。」と珍しく祖母を心配し頼み事をしてきた祖父はきっと何かを察していたのかもしれません。面会の日から幾日も経たないうちに祖父の容態は悪化、祖母達が様子を見に行った数時間後に静かに息を引き取りました。
翌日からは祖父の施設の退所手続きや葬儀場の手配等で泣く暇もない程慌ただしい時間が続き当時の話を聞ける状態ではありませんでした。そんな日々が一段落した頃、祖母は最期の時の様子を話してくれました。
「危篤状態だって連絡をもらって会いに行った時にはもう声すら出せない程に衰弱しきっていてね、でも私の方見て一生懸命に口を開けて「無理はするな」って。最後までありがとうの一言もない頑固じじいだったけど夫婦になって57年、初めて面と向かって言われたよ。無理はしないよって伝えたし、お互い言いたい事は言えたって思っているよ。」と祖母は少し晴れやかな顔をして遺影を見つめていました。その話を聞き、最後に長年連れ添った夫婦の間で後悔のないように言葉を交わし合えたのなら祖父も幸せに眠りにつけたのではないかと思います。
介護職 本吉 英里香