クレイン・トータス新聞
トータス新聞1面記事
父のこと
2024-03-01
私事になりますが、一昨年の春に私の父が83年の生涯を閉じ、このことについて少しお話をさせていただこうと思います。
初めに、父の人となりについて、あくまで息子視点からとなりますが、べらぼうな自信家であり、自分の好きなように、自分のやりたいように、自由きままに生きる人でありました。そして同時に、理知と情動、厳格と寛大、独善と融和、繊細と大雑把等の境界が一所に定まらず、矛盾に満ちた人でもありました。
父は、昭和38年からの36年間、市内中学校の数学教師を務めておりました。定年退職時の職位は教務主任であり、教頭や校長の地位には全く興味のない人でした。教務主任は学校教育の要であり、学校づくりの面白みや醍醐味が味わえる最終的な立場であるとの考えがあったようです。そして、自身の自由きままな生き方の姿勢に省みて、教頭や校長を務めてくれている方への気後れもあったのでしょうか、「校長に恥をかかせるなよ」が部下に対する口癖であったと伝え聞きました。赴任先は五井中→南総中→双葉中→五井中の三校のみであり、異例とも言えるこの異動の少なさについては、真偽の程は不明ながら、母に言わせると、あまりに強烈過ぎて動かしようがなかったとのこと。
一方で、バスケ部の顧問を長く務めておりましたが、これに対する力の注ぎようは相当なもので、休日も当たり前のように学校に出向き、部活動の指導に当たっておりました。私にはよく分かりませんが、多い時では30パターンを超えるフォーメーションを部員達の体と頭に叩き込ませ、試合の局面に応じて使い分けていたようです。私が子供の頃に、自宅のこたつでタバコをふかし、バスケの技術書を何冊も開きながらコート図に鉛筆を走らせて、沈思黙考していた姿が思い出されます。囲碁も趣味としていましたので(アマ五段)、同じような面白みを見出していたのだろう思います。傍から見れば、熱心に部活動の指導をしているように思われるのでしょうが、実際のところ、仕事ではなく、好きなことを夢中でやっていたという印象です。
そんな父の転機となったのが、昭和50年代に全国で吹き荒れた校内暴力の問題でした。その頃、生活指導主任であった父は、校内暴力の原因分析と対策に取り組むこととなり、このことが、その後の父の教育実践の原点となったようです。教師生活の大半のエネルギーを注ぎ込んでいた部活動の指導から身を引き、生活指導の枠を超えて、校内暴力、いじめ、登校拒否、学級崩壊等の学校の抱える様々な課題への対応、つまりは「学校づくり」が父の興味・関心の的に移行し、職場における実務となっていったようです。
酒は一滴も飲めないが、自他ともに認める大のタバコ好き、食事は好きな物しか食べようとせず、健康には全く無頓着な人でした。生徒に対して何よりも生活規律を求めながら、おかしな話なのです。そんな積年の不摂生が祟ったのでしょう、退職後には、肺気腫、心筋梗塞、腹部大動脈瘤解離、白血病と次から次へと発病し、まるで病気のデパートのような体となり、入退院を何度も繰り返していました。とりわけ、腹部大動脈瘤解離の後遺症として片足の麻痺と排泄障害が残り、以降は在宅のベッド上での生活を余儀なくされました。農業、地域の里山活動、中学校のバスケ部コーチなど、充実した余生を過ごしておりましたので、さぞかし不本意であるだろうと思いましたが、自身の置かれた状況をどうにか受容しつつ、できることを楽しもうと、頭を切り替えてくれていたようにも感じました。ベッド上に横たわり、テレビでスポーツ中継を大音量で視聴していた姿であったり(重度の難聴でした)、藤沢周平が大好きで、日がな一日読書に耽りながら、母に感想を述べたり、解説をしていた姿が思い浮かびます。
しかしながら、家族にとって要介護4の高齢者の在宅介護は大きな負担です。その多くを母が引き受けてくれていましたが、父は家族に対して全く遠慮がありません。ベッド上から私や母を怒鳴りつけることもしばしばでした。ただこれは、高齢を要因として易怒性が増したわけではなく、若い頃から極度に怒りっぽい性格であり、母も私もとっくの昔から慣れっこではあったのです。ただそうは言っても、家族に大きな負担をかけながら、なぜこんなにも偉そうにしているのかと、心底うんざりすることも多くありました。一方、母は異なった受け止め方をしており、「お父さんはすごい。こんな体になっても、人として何も変わっていない。遠慮なんかされたら、こっちがやりにくい。」と常々話しておりました。母と私、それぞれに様々な思いはありましたが、父の望むことは、できるだけ叶えてあげようという基本的な考え方は共有されていたのでした。
そんな日常が流れていた一昨年の春、出勤した私に母から電話があり、聞かされた言葉は「お父さんが息をしていないように思う。」飛んで帰り、父を見ると、右手でひじ枕をしながら普通に寝ているようにしか見えないのですが、顔に触れるとすでに冷たくなっておりました。まるで安楽死のように就寝中に心肺が停止して、翌朝を迎えることができなかったのでした。取り乱す母を慰めながら、往診をお願いしていた在宅診療所に死亡診断のための連絡を取り、担当ケアマネに全サービスの停止を依頼し、その後は葬儀社との打ち合わせになりました。コロナ禍でもあり、母の心理的負担を減らす意図もあって、一般葬ではなく家族葬のかたちを取らせていただき、通夜、告別式、火葬、納骨の段取りを進め、一段落したのちは、行政手続きや相続手続きに奔走することになりました。
かねてより、医師からいつどうなってもおかしくないとの説明を幾度も受けており、覚悟はしていたつもりでしたが、実の父親の死を、自分自身がどのように受け止め、どのように受け止められないのか、イメージすらできず、そのことをただ恐れ、忌避していたこともまた事実です。それでも、現実として父の死に接しながら、取り乱すこともなく、どこか冷静でいる自分自身がいたのでした。そしてこのことを、ただ不思議に感じておりました。後から思い及んでのことになりますが、父の望むことは、できるだけ叶えてあげようという姿勢で接していたため、ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったというような自責の念に苛まれることはなく、このことが大きく関係していたのかもしれません。父ほど自由気ままに生きることのできた人は、そうはいないであろうという強い確信もありましたし、ベッド上での生活が長期となり、社会的役割をすでに終えた人、父に対するそんな認識もあったように思います。あるいはまた、無意識的に介護のストレスからの解放を感じていたのかもしれません。
父が他界して2年の月日が経過しようとしていますが、今でも、かつて自分を庇護してくれていた人が、この世から消え去ってしまったという、腹に力が入らなくなるような心細さや喪失感に囚われることがあります。父は、相手が誰であっても媚びへつらうようなことが一切なく、一歩も引かない人でした。家族としてそんな強さを大いに頼みにしていたのだと、今更ながらに思い知らされております。あれだけ凄烈であった父でも滅びるのだという意外であったり、残された者の記憶の中で生き続けている安堵であったり、様々な思いが頭をよぎります。未だ心の整理がついていないのかもしれません。
ところで、私の父がどこのだれであるのか、見当の付く方もおられるかもしれません。そんな方に向けて、父にまつわるエピソードをいくつか記しておきますので、少しでも笑っていただければと思います。つくづくと、おおらかな時代に教師という仕事をさせてもらっていたのだと思うばかりです。
◆中学時代(昭和20年代)、英語教師からgirl(ガール)の発音を(ギル)と教えられていた◆高校時代、旺文社全国模試で上位に名を連ねるほどの秀才であったが、担任に太鼓判を押されて東工大を受験し、見事に落ちる◆大学時代、60年安保闘争で仲間と東京に遠征するが、デモ隊に合流できず、日劇ウエスタンカーニバルを観て帰る◆婚約の挨拶で初めて母の実家を訪れた際、一言も口を利かず、「何しに来たのか。すごい男を連れてきた。」と母の両親の度肝を抜く◆平教員時代、教育委員会の視察時にあまりに偉そうにしており、「あのかたは、どなたですか?」と何度も確認される◆禁煙期間中、この世の終わりのような顔をしている◆職場でウイスキーボンボンを一つ食べて帰宅不能になる◆体育館のステージ上にひじ枕で寝そべり、タバコの灰を空缶に落としつつ、部員に檄を飛ばしていた(証言多数)◆口癖の「バカ!」を連呼し過ぎ、生徒から「カバ」のあだ名をつけられる◆黒板にフリーハンドで大きな正円を描き、「これが描けるのは頭のいい証拠だ」などと謎理論を主張していた
故人となった身内について語ることの難しさを痛感しております。持ち上げ過ぎれば嫌らしくなり、下げ過ぎれば名誉にかかわり、それらを意識し過ぎれば実像からかけ離れて行きます。何よりも、どのように書かれても、故人にはいかなる弁明も反論もできません。つまりは、そこそこの手心と手加減が加味された本稿であることをお含みおきいただけますと幸いです。
ところで、新型コロナウイルスに翻弄された数年来の月日の中で、この国の抱える多くの根深い問題が一挙に顕在化されてしまったように感じております。言うまでもなく、その元凶は少子高齢化に伴う人口減少にあり、生産年齢人口の減少、全産業における人手不足、国内需要の減少、国際競争力の弱体化、社会保障費の増大、自治体の財源不足、インフラ維持の困難等々、国の衰退を想起させるほどの悪材料が一気に噴出したような印象さえあります。そしてこのような折、まるで追い打ちをかけるように能登半島において地震・津波による壊滅的な被害が発生してしまいました。被災された方々に対して心よりのお悔やみとお見舞いを申し上げますともに、復旧、復興にご尽力されている方々に対して敬意を表します。
父と同世代の理事長が、あるいは少し下の世代の施設長が、若かりし日の昔話をよく聞かせてくれます。父から聞かされた話に重ね合わせ、過ぎ去ってしまった時代の空気感、人々の持っていた活気や熱量、おおらかさや途方も無さなどを思う時、嫉妬にも似た思いを禁じ得ません。時の流れは決して元には戻りませんが、ただそうであっても、例えば、空襲で焼け野原となった東京が戦後数年間のうちにどのようにして復興していったのか、なぜそれが可能であったのか、そんな物思いに耽ることがあります。すでに支配的となりつつある暗澹たる未来予測に対して、どこからか光明が差し込むのではないか、何らかの方策を見つけ出せるのではないか、先達たちの生きた時代に思いを巡らせながら、希望の光を探し求める今日この頃です。
初めに、父の人となりについて、あくまで息子視点からとなりますが、べらぼうな自信家であり、自分の好きなように、自分のやりたいように、自由きままに生きる人でありました。そして同時に、理知と情動、厳格と寛大、独善と融和、繊細と大雑把等の境界が一所に定まらず、矛盾に満ちた人でもありました。
父は、昭和38年からの36年間、市内中学校の数学教師を務めておりました。定年退職時の職位は教務主任であり、教頭や校長の地位には全く興味のない人でした。教務主任は学校教育の要であり、学校づくりの面白みや醍醐味が味わえる最終的な立場であるとの考えがあったようです。そして、自身の自由きままな生き方の姿勢に省みて、教頭や校長を務めてくれている方への気後れもあったのでしょうか、「校長に恥をかかせるなよ」が部下に対する口癖であったと伝え聞きました。赴任先は五井中→南総中→双葉中→五井中の三校のみであり、異例とも言えるこの異動の少なさについては、真偽の程は不明ながら、母に言わせると、あまりに強烈過ぎて動かしようがなかったとのこと。
一方で、バスケ部の顧問を長く務めておりましたが、これに対する力の注ぎようは相当なもので、休日も当たり前のように学校に出向き、部活動の指導に当たっておりました。私にはよく分かりませんが、多い時では30パターンを超えるフォーメーションを部員達の体と頭に叩き込ませ、試合の局面に応じて使い分けていたようです。私が子供の頃に、自宅のこたつでタバコをふかし、バスケの技術書を何冊も開きながらコート図に鉛筆を走らせて、沈思黙考していた姿が思い出されます。囲碁も趣味としていましたので(アマ五段)、同じような面白みを見出していたのだろう思います。傍から見れば、熱心に部活動の指導をしているように思われるのでしょうが、実際のところ、仕事ではなく、好きなことを夢中でやっていたという印象です。
そんな父の転機となったのが、昭和50年代に全国で吹き荒れた校内暴力の問題でした。その頃、生活指導主任であった父は、校内暴力の原因分析と対策に取り組むこととなり、このことが、その後の父の教育実践の原点となったようです。教師生活の大半のエネルギーを注ぎ込んでいた部活動の指導から身を引き、生活指導の枠を超えて、校内暴力、いじめ、登校拒否、学級崩壊等の学校の抱える様々な課題への対応、つまりは「学校づくり」が父の興味・関心の的に移行し、職場における実務となっていったようです。
酒は一滴も飲めないが、自他ともに認める大のタバコ好き、食事は好きな物しか食べようとせず、健康には全く無頓着な人でした。生徒に対して何よりも生活規律を求めながら、おかしな話なのです。そんな積年の不摂生が祟ったのでしょう、退職後には、肺気腫、心筋梗塞、腹部大動脈瘤解離、白血病と次から次へと発病し、まるで病気のデパートのような体となり、入退院を何度も繰り返していました。とりわけ、腹部大動脈瘤解離の後遺症として片足の麻痺と排泄障害が残り、以降は在宅のベッド上での生活を余儀なくされました。農業、地域の里山活動、中学校のバスケ部コーチなど、充実した余生を過ごしておりましたので、さぞかし不本意であるだろうと思いましたが、自身の置かれた状況をどうにか受容しつつ、できることを楽しもうと、頭を切り替えてくれていたようにも感じました。ベッド上に横たわり、テレビでスポーツ中継を大音量で視聴していた姿であったり(重度の難聴でした)、藤沢周平が大好きで、日がな一日読書に耽りながら、母に感想を述べたり、解説をしていた姿が思い浮かびます。
しかしながら、家族にとって要介護4の高齢者の在宅介護は大きな負担です。その多くを母が引き受けてくれていましたが、父は家族に対して全く遠慮がありません。ベッド上から私や母を怒鳴りつけることもしばしばでした。ただこれは、高齢を要因として易怒性が増したわけではなく、若い頃から極度に怒りっぽい性格であり、母も私もとっくの昔から慣れっこではあったのです。ただそうは言っても、家族に大きな負担をかけながら、なぜこんなにも偉そうにしているのかと、心底うんざりすることも多くありました。一方、母は異なった受け止め方をしており、「お父さんはすごい。こんな体になっても、人として何も変わっていない。遠慮なんかされたら、こっちがやりにくい。」と常々話しておりました。母と私、それぞれに様々な思いはありましたが、父の望むことは、できるだけ叶えてあげようという基本的な考え方は共有されていたのでした。
そんな日常が流れていた一昨年の春、出勤した私に母から電話があり、聞かされた言葉は「お父さんが息をしていないように思う。」飛んで帰り、父を見ると、右手でひじ枕をしながら普通に寝ているようにしか見えないのですが、顔に触れるとすでに冷たくなっておりました。まるで安楽死のように就寝中に心肺が停止して、翌朝を迎えることができなかったのでした。取り乱す母を慰めながら、往診をお願いしていた在宅診療所に死亡診断のための連絡を取り、担当ケアマネに全サービスの停止を依頼し、その後は葬儀社との打ち合わせになりました。コロナ禍でもあり、母の心理的負担を減らす意図もあって、一般葬ではなく家族葬のかたちを取らせていただき、通夜、告別式、火葬、納骨の段取りを進め、一段落したのちは、行政手続きや相続手続きに奔走することになりました。
かねてより、医師からいつどうなってもおかしくないとの説明を幾度も受けており、覚悟はしていたつもりでしたが、実の父親の死を、自分自身がどのように受け止め、どのように受け止められないのか、イメージすらできず、そのことをただ恐れ、忌避していたこともまた事実です。それでも、現実として父の死に接しながら、取り乱すこともなく、どこか冷静でいる自分自身がいたのでした。そしてこのことを、ただ不思議に感じておりました。後から思い及んでのことになりますが、父の望むことは、できるだけ叶えてあげようという姿勢で接していたため、ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったというような自責の念に苛まれることはなく、このことが大きく関係していたのかもしれません。父ほど自由気ままに生きることのできた人は、そうはいないであろうという強い確信もありましたし、ベッド上での生活が長期となり、社会的役割をすでに終えた人、父に対するそんな認識もあったように思います。あるいはまた、無意識的に介護のストレスからの解放を感じていたのかもしれません。
父が他界して2年の月日が経過しようとしていますが、今でも、かつて自分を庇護してくれていた人が、この世から消え去ってしまったという、腹に力が入らなくなるような心細さや喪失感に囚われることがあります。父は、相手が誰であっても媚びへつらうようなことが一切なく、一歩も引かない人でした。家族としてそんな強さを大いに頼みにしていたのだと、今更ながらに思い知らされております。あれだけ凄烈であった父でも滅びるのだという意外であったり、残された者の記憶の中で生き続けている安堵であったり、様々な思いが頭をよぎります。未だ心の整理がついていないのかもしれません。
ところで、私の父がどこのだれであるのか、見当の付く方もおられるかもしれません。そんな方に向けて、父にまつわるエピソードをいくつか記しておきますので、少しでも笑っていただければと思います。つくづくと、おおらかな時代に教師という仕事をさせてもらっていたのだと思うばかりです。
◆中学時代(昭和20年代)、英語教師からgirl(ガール)の発音を(ギル)と教えられていた◆高校時代、旺文社全国模試で上位に名を連ねるほどの秀才であったが、担任に太鼓判を押されて東工大を受験し、見事に落ちる◆大学時代、60年安保闘争で仲間と東京に遠征するが、デモ隊に合流できず、日劇ウエスタンカーニバルを観て帰る◆婚約の挨拶で初めて母の実家を訪れた際、一言も口を利かず、「何しに来たのか。すごい男を連れてきた。」と母の両親の度肝を抜く◆平教員時代、教育委員会の視察時にあまりに偉そうにしており、「あのかたは、どなたですか?」と何度も確認される◆禁煙期間中、この世の終わりのような顔をしている◆職場でウイスキーボンボンを一つ食べて帰宅不能になる◆体育館のステージ上にひじ枕で寝そべり、タバコの灰を空缶に落としつつ、部員に檄を飛ばしていた(証言多数)◆口癖の「バカ!」を連呼し過ぎ、生徒から「カバ」のあだ名をつけられる◆黒板にフリーハンドで大きな正円を描き、「これが描けるのは頭のいい証拠だ」などと謎理論を主張していた
故人となった身内について語ることの難しさを痛感しております。持ち上げ過ぎれば嫌らしくなり、下げ過ぎれば名誉にかかわり、それらを意識し過ぎれば実像からかけ離れて行きます。何よりも、どのように書かれても、故人にはいかなる弁明も反論もできません。つまりは、そこそこの手心と手加減が加味された本稿であることをお含みおきいただけますと幸いです。
ところで、新型コロナウイルスに翻弄された数年来の月日の中で、この国の抱える多くの根深い問題が一挙に顕在化されてしまったように感じております。言うまでもなく、その元凶は少子高齢化に伴う人口減少にあり、生産年齢人口の減少、全産業における人手不足、国内需要の減少、国際競争力の弱体化、社会保障費の増大、自治体の財源不足、インフラ維持の困難等々、国の衰退を想起させるほどの悪材料が一気に噴出したような印象さえあります。そしてこのような折、まるで追い打ちをかけるように能登半島において地震・津波による壊滅的な被害が発生してしまいました。被災された方々に対して心よりのお悔やみとお見舞いを申し上げますともに、復旧、復興にご尽力されている方々に対して敬意を表します。
父と同世代の理事長が、あるいは少し下の世代の施設長が、若かりし日の昔話をよく聞かせてくれます。父から聞かされた話に重ね合わせ、過ぎ去ってしまった時代の空気感、人々の持っていた活気や熱量、おおらかさや途方も無さなどを思う時、嫉妬にも似た思いを禁じ得ません。時の流れは決して元には戻りませんが、ただそうであっても、例えば、空襲で焼け野原となった東京が戦後数年間のうちにどのようにして復興していったのか、なぜそれが可能であったのか、そんな物思いに耽ることがあります。すでに支配的となりつつある暗澹たる未来予測に対して、どこからか光明が差し込むのではないか、何らかの方策を見つけ出せるのではないか、先達たちの生きた時代に思いを巡らせながら、希望の光を探し求める今日この頃です。
特別養護老人ホームトータス
副施設長 林 公彦